2006年 06月 19日
いちばん大事なこと―養老教授の環境論 養老 孟司 / 集英社 スコア選択: ★★★★ 環境をテーマにしたフェスに会社が参加するので手伝いに行った。そこで開催されていた養老孟司の講演を聴く。講演のテーマは「動物たちからのメッセージ」。環境問題について、動植物の視点からそれについて言及するというもの。 考古学者のモースの日記によれば、その昔日本は「あきつくに」と呼ばれていたほど、トンボが多い国であった。トンボだけではない。メリアム・ロスチャイルドという人の手記によると、彼女の祖父が明治時代日光を訪れた際、1日3千頭のチョウを捕らえたという。かつての日本はそれほど昆虫の多い自然豊かな国であったということだ。この昆虫が目に見えて減ってきたのは昭和の高度成長以降のことで、都市部のみならず山村においてもその傾向は見られるという。都市部においては人口の増加とそれに伴う環境の変化のせいといえようが、山村部におけるその原因は不明なのだそうだ。 意外なことだが、日本の自然は世界的に見て非常に頑強であるという。気候的にも地質的にも恵まれているため、多少人間の手が入ってもその回復力が旺盛ですぐに荒廃したりはしないのである。世界で古代文明が栄えた地域は現在砂漠か荒地になっているが、それは文明が築かれたことにより森林の伐採で表土が流出し土壌が痩せたのが原因である。そもそもそれらの地の自然は脆弱であり、一度荒廃してしまうとその回復が困難なのである。日本は小さな国に1億以上の人間がひしめいているとはいえ、人口密度が高いのは一部の都市のみ(都市人口比率は86%)でそれ以外は実は自然豊かな田舎なのである。 ここから話の展開は都会と田舎という概念に及ぶ。「雑草」という言葉があるが、「雑草」という植物は存在しない。ススキなりセイタカアワダチソウなり、オオバコなり、それぞれの草には正式な名称がある。「雑草」というのは「勝手にそこに生えている草」という意味であり、つまりそれは城郭内がすべて人工物で覆われた都会の認識である。そこに意図しないものがあればそれを無駄なものとして十把ひとからげにするという感覚。 氏の長年の趣味は昆虫採集であるという。地域区分というのは人間が勝手に決めたものではないということが昆虫を見ているとよく判るらしい。河川があってそこが境である場合もあれば、陸続きなのにそこに境がある場合もある。後者の場合我々は一見これを見逃してしまいがちだが、そこには明確な境界があるというのである。たとえば県境を過ぎるとそこに住まうゾウムシの種類が変わるというのである。ということは、つまりそこは太古の昔別の島であったのではないかという推測が生まれる。地殻変動によってひとつの島となった後もその境界は依然存在するのだ。そこに生息する植物や昆虫がそれを教えてくれる。人間が勝手に線引きをしたのではなく、境はそこにはじめからあったのである。 自然に対して謙虚であれというのはよく耳にするが、養老氏は生命を例に挙げ、「殺すのは非常に簡単であるが、創るのはどんなに金を掛けてもできない」と云う。人工衛星を宇宙に送ることはできても、自然界の最小システムである細胞ひとつ人間は創り出すことはできないでいる。 内容は多岐に亘り(最後はニーチェの言語論まで出てきた)いずれも大変に興味深いものであった。この種の人にありがちなやっちゃった感がいくばくか漂う著述はあるが、まあそれはそれで。 やっぱり圧倒的な知識量と経験を背景にした話というのは聴いていて安心感があるものだ。
by kelsokelsokelso
| 2006-06-19 14:08
| 本とか映画とか
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